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辻村 有記 WEB LIMITED INTERVIEW

「誰かの人生の光になればいい」

元HaKUのフロントマン・辻村有記が、“Fox.i.e”(フォキシー)名義の活動を経て1st EP『POP』をリリースする。ロック、エレクトロ、ダンス、ポップス、オーケストラ――自らを形成するさまざまな音楽があったからこそ、自らの音と言葉と歌で表現することのできた全6曲。彼の感じた光はそのまま誰かの光となるためこの作品へと込められた。覚悟を決め、新たなスタートをきった辻村に、その込めた想いを訊いた。

■ご自身名義では初のリリースとなりますね。

辻村 バンドをやっていたときはHaKUのヴォーカル、HaKUのギターという肩書きがあったので、あくまでもHaKUの辻村有記だったんですけど、自分の名前を掲げて活動するというのはやっぱりすごく勇気のいることだし、これは覚悟が必要だなと。その覚悟がこの作品にすごく表れたんじゃないかと思います。

■自分の名前を掲げてやっていこうという覚悟を決めたのはいつなんですか?

辻村 バンドを解散してから1年後(2017年8月9日)に初めてライブをやらせていただいたんですけど、そこでやっと覚悟が決まった感じです。単純に楽屋に自分の名前があって「あ、自分ひとりなんだ」って思ったりして。(笑)だからこそ踏ん張らなくちゃいけないなと思う反面、自分の出したいものを出せるんだっていう自由さも感じて。でも自由さが増せば、返ってくる反応もナチュラルだろうってことに気がついて、すごく怖かったんですけど、自分がこれだと思う音楽を胸を張ってできたので。そこであらためて覚悟ができたような気がするし、それがこのEPにつながったんだなって思います。

■なるほど。

辻村 それまでも曲はたくさん作ってはいたんですけど、音楽ってやっぱり人に届くことで色がつくというか、届けたときにやっと音楽になるんだなって。やっぱり人に伝えなきゃ、伝わんなきゃ音楽にならないんだなって。あたりまえのことなんですけど、それを実感することによってマインドが変わったというか、前向きになっていきましたね。

■ライブが大きかったんですね。

辻村 このライブがなかったらたぶん覚悟を決められなかったと思います。

■バンド解散後は“Fox.i.e”(フォキシー)名義で海外でも活動されていましたけど、もともとやりたかったことだったんですか?

辻村 もともと洋楽が大好きで、ひとりで海外に旅に出たりすることもあったんですけど、昔ロスに行ったときやバンドでアジアツアーに行ったとき、タクシーの中で好きな音楽がよく流れていて、なんか勇気づけられたりするんですよね。そういうのが自分の音楽の糧になっている部分でもあるし。だからいつか自分も国籍を問わず音楽で表現できたらいいなとは思っていたんですよ。それからだんだん世の中にネットが普及してきて、音楽が世界を渡れる時代になって、そのメリットを生かして世界に自分の音楽を届けられたらいいなという想いで“Fox.i.e”をスタートしたんです。

■実際に海外で活動されてみていかがでした?

辻村 音楽って自由なものなんだなってあらためて思いましたね。それまではバンドだったのでステージに立つことだけがライブだっていう意識が強かったんですけど、音楽を作っている制作現場が実はライブそのものだったというか、熱量と熱量がぶつかり合ってひとつの作品を作り上げる、そのエネルギーって何かに似てるなって思ったとき、あ、これはライブに似てるなって。楽曲制作の段階でそれだけの熱量を出せるってすごいことだと思うし、そういうものがいちばん人に伝わるんだと思うし、そこに気づけたのがいちばん大きかったですね。

■北欧に行かれたのは?

辻村 あの空気感とか寒い感じが好きなんです。寒いところのほうが光があるというか、あたたかいことを歌ったときに衝撃が走るというか、暗闇の中にちょっとだけ光があるほうが光を強く感じるじゃないですか。それと同じで、寒いところであたたかいことを歌ったときにほんとのあたたかさを感じることができるというか。そういうのがすごく好きで、自分もそういう曲を作ってみたいなと思って。

■まさに今作にもその空気感はたっぷり表れていますが、“Fox.i.e”名義でやられていたとき辻村さんのお名前を出さなかったのには理由があるんですか?

辻村 自分の中ではもう歌うことはないなと思っていて、当時はもうステージに立つことはないだろうなって思っていたんです。だから英語詞で展開してたっていうのもあるんですけど、いろんな国で自分の生まれた国を誇りに思うことがあって。そのとき具体的になんだろうって考えたとき、自分にとっては日本語が誇りだなと思ったんです。

■なるほど。

辻村 日本詞で音楽を伝えるということはバンドでもやっていたんですけど、いま自分が作ったトラックに日本語の詞を乗せたらどうなるかと思ってやってみたら、それを聴いた周りの人たちが「有記、これは自分で歌ったほうがいいよ。歌いなよ!」って言ってくれて。そこから、あれやろう、これやろうっていう流れでいろんなことがつながっていって、1年後の8月9日にたどり着いたっていう感じなんですよね。

■自然の流れというか、導かれてというか、そんな感じなんでしょうか?

辻村 ジャンルというか、そういうものを変えてもう一度ステージに立つというのはけっこう難しいような気がしていたんです。やっている音楽もロックロックしてるものではないし、立つとしてももっと時間がかかるだろうなって、単純にそれだけだったんですけど、いろんな機会と出会いの中でそれに動かされたというか、そこから自分の意思が変わっていったという感じですね。

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